マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーと修道院長との対談──1964年BBCテレビ放送

1964年7月5日、マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーがロンドンを訪れた際、「The Viewpoint」というBBCテレビの人気番組に出演した。二人の精神的な指導者、マハリシとダウンサイドの修道院長が対談したこの番組は、何百万もの人々に視聴され、その後何カ月間にもわたってロンドンのTMセンターには問い合わせの電話がひっきりなしにあったという。番組を見たある人は次のように述べている。

「神聖な二人の出会いを見た人たちは、二人が互いの内側の精神性を直ちに認め合ったあのすばらしさ、彼らの声の調子、彼らの静けさ、飾らない態度、互いに相手の言うことに耳を傾ける姿勢を、永遠に忘れないでしょう。」

以下は、番組で行われた対談の一部です。

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司会者:マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーは、ヒマラヤからやって来た瞑想の教師です。彼の教える瞑想法は非常に簡単で、それを用いれば私たちの内側の葛藤や社会全体の緊張をすべて取り除くことができると言われています。マハリシの公式な言葉によると、この瞑想法は、世俗的な欲求を捨て去る必要もまったくないし、僧侶のように人生から引きこもる必要もないということです。また、体の運動や自己の抑圧や禁欲はまったく含まれていないそうです。

今、アメリカでは、マハリシのこの瞑想は、薬ではない精神安定剤として、またまったく新しい形の睡眠薬として歓迎されています。瞑想を実践している人たちは若返って見えるとか、家族との関係がよくなるというようなことも知られています。しかし、マハリシによると、これらの効果は彼の教えの単なる副産物にすぎないということです。最も重要なことは、彼の教えによって誰もが、キリスト教が万人のなかにあると説く神の王国に触れることができるということです。

さて今晩は、マハリシの教えの特にこの点を探ってみることにしましょう。私たちのこの仕事を助けていただくために、非常に幸運なことに、ダウンサイドの修道院長であるバトラー神父に来ていただくことができました。しかし、まず最初に、マハリシの教えの実際的な面から始めることにしたいと思います。マハリシ、最初に、あなたがどのようにしてこの技術にめぐり会ったか、それを話していただけませんか? どのようにしてそれをお始めになったのですか?

マハリシ:インドの私の先生の非常に系統的な教えによってです。

司会者:あなたの先生はどなたですか?

マハリシ:ジャガッド・グル・シャンカラーチャーリヤ・スワミ・ブラーフマーナンダ・サラスワティーという方です。彼はヒマラヤの偉大な聖者で、すべての人々に敬愛された人です。

司会者:彼はヒンドゥーの聖者ですか?

マハリシ:そうです。ヒンドゥーの聖者です。しかし、私が思うのは、どの宗教もその本当のエッセンスは同じだということです。つまり、宗教の教えの神髄とは、あらゆる人が人生の葛藤や不安や悲しみや苦しみを越えて、平和で喜びに満ちた、調和的な人生を生きることができるようにすることです。

司会者:だれでも、あなたの瞑想法を学ぶことができるでしょうか?

マハリシ:だれでもできます。なぜなら、何もする必要がないからです。ただ、自分自身の内側のより喜びに満ちた領域を心が楽しむようにすればよいだけです。

司会者:体の面で要求されることは何もないのですか?

マハリシ:ありません。もちろん、神経系は正常でないといけません。欠陥のある神経系ではいけません。人間の内側の「存在」は至福に満ちています。心はその至福に満ちた「存在」にやって来ます。それは、内なる神の王国です。キリストは、神の王国はあなたたちのなかにあると言いました。そのために、内側へいくその方法は、非常に簡単なものです。だれでもそれを行うことが出来ます。

司会者:だれでもできる、しかも非常に簡単なのですね。では、実際にどのように始めるのか、それを少しわかるように話していただけませんか?

 
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マハリシ:どのように始めるかですね。すべての人に共通なことが一つあります。それは、どの心もより多くを楽しもうとすることです。だれの心も、より少ない幸福の領域からより豊かな方向へ進もうとします。これが、あらゆる人の心にもともと備わっている共通の要素です。さて、心が外側で経験する喜びは、心が考えの微妙なレベルで経験する喜びよりもずっと小さなものです。「存在」の領域に近づくにしたがって、心は次第に増大する魅力を感じるようになります。そして、この想念の微妙な領域へと一歩一歩進むたびに増大する魅力が、心を自動的に内側へ引き寄せるのです。私たちは、「存在」のあの領域へ行くために、集中したり努力をしたりする必要はありません。私たちはただ、心をそちらの方向へ行かせればよいのです。そうすれば、心は進んでいきます。

司会者:しかし、これは相当進んだ想念と心のコントロールが必要のように思われます。このようなことは、十分に訓練して準備してからでないと学べないのではないのでしょうか?

マハリシ:そんなことはありません。私たちがラジオ番組を聞いているときに、もし美しい音楽が流れてくれば、心は自然にそれに引かれていきます。より美しい音楽を楽しむために訓練をする必要はないのです。

司会者:修道院長にお尋ねしたいのですが、あなたは、マハリシがおっしゃるように、神を見いだすことが簡単だと、あるいは簡単でありうるとお考えになりますか?

修道院長:それは、私を大いに悩ませている問題の一つです。一部の人たちにとってはそうかもしれません。しかし、これはあらゆる人のための普遍的な技術として提供されているものです。マハリシがお話しになっているような神との合一の高みあるいは深みに達するまでには、普通の人は長い、時にはつらい努力を重ねなくてはならないというのが西洋の私たちの経験であるように思います。

 
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マハリシ:実は、修道院長、私たちの聖典が「神の王国はあなたたちの内側にある」と教え続けてきたにもかかわらず、私たちは過去何世紀にもわたって、神を見いだすことは非常に難しい、神はどこか天の遠いところにいらっしゃると教えられてきました。私たちは、聖典のそのような教えを受け取らないで、預言者たちの教えの他の部分ばかりを強調してきました。そして、そのために、全能にして慈悲深い神があらゆる人の前に現れることが難しくなってしまったのです。

私は今こそ、神の王国はあなたがたの内側にあるというキリストのこの教えを復活させ、それを強調すべき時であると思います。そして、私たちの内側に神の王国を持てば、人生で苦しむ必要はなくなります。私たちは、ただ神の恵みを楽しむだけです。それはそこにあります。楽しむためには、ただ自分自身の内側深くへ飛び込むだけです。自分自身の内側深くへ飛び込むためには、考えの過程を逆にたどっていって、考えの最も微妙な状態に達すればよいのです。そして、それは至福に満ちています。経験からわかることは、瞑想は楽しいものだということです。長い間瞑想を続けないと、そのような喜びを経験することができない、というものではありません。すでにこの五年間に、何万もの人たちが、瞑想をすると幸福に感じ始めるという経験をしてきました。

 
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司会者:しかし、修道院長、キリスト教には、この至福の状態以上の教えがあるのではないでしょうか? つまり、キリスト教の教え全体のなかでは、苦しみは非常に重要であり、苦しみを通じて救いを得るということすらも教えられています。それに対し、マハリシは、苦しみは不必要であって、望ましくないものであるとさえおっしゃっているようです。

修道院長:それは、この状況全体のなかでも最も難しい問題の一つであるように思います。結局、苦しみは私たち人間が出かけていって求めるものではなく、向こうから私たちの所へやって来るものですから……。

マハリシ:まったくそのとおりです。求めなくてもやって来ます。

修道院長:それは私たちの望まないものですが、しかし、非常に現実的なものです。それは私たちの実存状況の一部ですが、あまりありがたいものではありません。おそらく、もしなにか慢性の病気で苦しんでいる人がいたとしたら、あるいは、非常に愛していた人を亡くした人がいたとしたら、「苦しみは問題ではない」と言ってあげるのがよいでしょう。そのような人たちには……。

マハリシ:いえ、いえ。私たちは苦しみは問題ではないとは言えません。私たちができることは、その人が幸福になるような何かをその人に与えることです。その人がもっとエネルギッシュになって、もっと有能になって、苦しみを感じなくなるような何かをその人に与えることです。

修道院長:そうです。苦しみはあっても、それに対処する方法が何かあるはずだと私は思うのです。

マハリシ:それに対処する方法があります。苦しみがやって来ないように人生を生きる方法があります。

修道院長:そうです。そうです。

マハリシ:それに対する方法があります。朝と夕方の瞑想、これがまさにそれです。

修道院長:神はその慈悲から人間を求めているという深い真理があります。神が人間から善を得ようとしているのではなく、神が人間に善を与えようとしているのです。

マハリシ:たいへん素晴らしいことです。これが神の慈悲深い全能の本質です。神はすべての人の心のなかに最大限にその恵みを与えられました。そして、神は人間をその恵みから離れられないようにしました。人はただ飛び込み始めればよいのです。そうすれば、あらゆることを通して神の恵みを生きられるようになります。

修道院長:私たちにとって非常に重要なことは、私たちは神との合一において、それは私たちが自分の努力によって達成したものではなく、神が愛の贈り物として私たちにくださったものだ、と思うべきだということです。私たちは神に対して非常に感謝すべきであって、「私は自分の努力によってこの段階に到達した」と言うべきではありません。「神が私をここまで導いてくださった」と言うべきです。

マハリシ:素晴らしいことです。私たちの達成をすべて神に捧げて、それについて幸福に感じ、神に感謝するのはいつもよいことです。あなたがすでにおっしゃったように、それは私たちの努力によるものではなく、努力を最少にしたからです。瞑想においては、私たちは努力をしません。私たちは心がより努力のない状態に入っていくようにします。なぜなら、精妙な状態を経験するときには、努力は次第に少なくなっていって、それからまったく努力がなくなるからです。まったく努力がなくなります。そのような理由から、それは私たちの努力からではなく、神の恵みからだと言われるのです。神の恵みがあらゆる段階で、心をより大きな幸福へと引き寄せていきます。私たちはそうして神の悟りを達成します。たいへん素晴らしいことです。

 
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修道院長:別の言い方をすれば、私たちは神の恵みを働かせなくてはいけません。

マハリシ:神の恵みは働いています。私たちはただ自分がそれを受け取り始めるようにすればよいのです。

司会者:マハリシ、私はあなたと修道院長のアプローチが非常に似ているということに驚きました。しかし、もちろんあなたの瞑想の基盤はインドの宗教にあるのですね?

マハリシ:私の瞑想の基盤は、より大きな幸福の場へ行こうとする心の願望にあります。より大きな幸福の場へ、「存在」へ行こうとする心本来の傾向にあります。「存在」は至福に満ちた性質のものです。「存在」は至福に満ちています。そして、心はより大きな幸福の場へと進んで行きます。

司会者:マハリシ、あなたにとって、キリストの生涯はどのくらい重要でしたか?

マハリシ:私はキリストの「神の御国はあなたがたの内側にある」という教えと、私たちがしなければならないことは、「まず、神の御国を求めることである。そうすれば、他の物はすべて添えて与えられるだろう」という教えが大好きです。

修道院長:それではあなたは、神との愛の合一とは、愛によって神のなかに憩うことであり、このような合一のなかに、私たちは満足を見いだす、というキリスト教の説明の仕方を受け入れられるのでしょうか?

マハリシ:たいへん素晴らしいことです。なぜなら、それは愛であるからです──それは神への愛、至福への愛、幸福への愛です。それが心を自然に導いて、「存在」の状態へと自発的に落ち着かせます。

修道院長:マハリシ、あなたにぜひお尋ねしたいことが一つあります。瞑想で到達する状況は、私たちが神を見いだす状況と同じであるといえるのでしょうか。そう言ったとしても、あなたはそれを退けることはなさらないだろうと私は思うのですが……。

マハリシ:そうです。そうです。それは神を見いだす唯一の道です。神を見いだす唯一の道です。

司会者:さて、マハリシ、修道院長、お二人ともたいへんありがとうございました。マハリシがおっしゃったことのなかには、現代キリスト教神学者たちが神と同一視している私たちの「存在」の基盤というものと確かに共鳴するところが大いにあったのではないかと思います。今は明らかに、どの宗教も自己の点検を行っているときです。特にキリスト教はそうであるようです。すべての宗教がいっしょに集まって、互いがどんなに離れてしまっているかに気づくことが、重要なことではないかと思います。

 
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