アイオワの小さな町で瞑想して、戦争で負った心の傷が癒された顛末

イラクの自由作戦で配備された退役軍人であるフリーライターのスプリヤ・ベンカテサンさんは、アイオワ州のフェアフィールドに移り住み、毎日、瞑想することによって戦場でのトラウマから解放されたと、ワシントン・ポスト紙のブログのなかで述べている。以下はその抄訳。

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私は、軍隊でつらい6年間を過ごした後、普通の市民として暮らす術がわからなかった。

19歳のとき、私はアメリカ陸軍に入隊し、イラクに配備された。15カ月をそこで過ごしたが、そのうち8カ月は米国大使館で勤務し、最高位の将官たちの情報のやりとりをサポートした。そのレベルの決定は複雑であり階層化されていることは理解していたが、その場に立ち会った私にとって、それらの行動の一部は私の良心を不安にさせるものだった。

罪悪感を打ち消すために、私は、1日しかない休暇の日には、イラクで最大の野戦病院であるイブン・シーナ病院で衛生兵のボランティアをした。そこで私は、負傷したイラク市民の治療や生活への復帰を手助けした。しかし、それでも私は迷いを感じ、心は千々に乱れていた。私は自分にはなかった青年期に郷愁を抱いていた。他の20歳くらいの人々が、伝統的な大学生活を送り、卒業後の最初の仕事の面接で採用され、早期にキャリアを成功させているときに、私は、集団で行進をしたり、韓国の非武装地帯付近の山の上で野営をしたり、イラクの戦場で他国の戦闘のために戦ったりして、感情が麻痺したような6年間を過ごしていた。

イラクに配備されるとき、数人の兵士と私はクウェートのリゾート地で短期滞在する休暇を与えられた。そこで私は瞑想ヒーリングのセッションに参加し、短時間だったが強力な体験をした。それで、軍務が終了してアメリカに戻ったとき、私はアイオワへと向かったのだ。

除隊して48時間後に、私はアイオワのフェアフィールドにあるマハリシ経営大学(MUM)のキャンパスに到着した。MUMは小さな教養大学で、トウモロコシ畑の真ん中にあった。創立者は超越瞑想のグル、マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーだ。私はクォーターライフ・クライシス(四半世紀を生きた若者が経験する精神的な重圧)になったと冗談で言っていたが、実際には、私の良心が危機に陥っていたのだ。イラクでの経験から私はこの世界に疑問をもつようになり、私自身の死と倫理観の問題に立ち向かっていた。

人生の立て直しは、不意打ちのカルチャーショックで始まった。新入学の学生のためのキャンプ旅行に参加したとき、私は、女子学生たちが起床してすぐに、まつげのカールをしてから、ネガティブなエネルギーを防ぐために線香と一束のセージを焚いているのをじっと見ていた。私は同じような野外環境で過ごすことに慣れていたが、そこには何百人もの男たちがタバコを吐き出したり、常軌を逸した性的行為をおおっぴらに話したり、絶え間なくビデオゲームに興じたりしていた。一般人の女性とはこんな感じなのだろうか? スピリチュアリティとはこういうようなものなのだろうか?

キャンパスでは学生は瞑想を義務づけられていて、その町の学生以外の住民は主にその大学の卒業生か、長年のマハリシの信奉者たちで構成されていた。到着してまもなく、私は上級の瞑想コースを修了し、1日に3時間の瞑想を開始した。その習慣は5年後の今でも続いている。私は毎朝、学生と教師、そしてフェアフィールドの住民が集まって瞑想をするドームに足を運んだ。夕方にも、私たちはもう一度集まって、また瞑想のラウンドを行った。私がフェアフィールドにいた間、オプラのような著名人もドームを訪れて瞑想に参加していた。

軍隊にいるときは、まったく幸運なことに、私の支えになってくれる良き助言者たちに恵まれたが、フェアフィールドはメンタルな面で私を抱擁してくれた。私は、瞑想後に内省するあいだ何時間も泣き続けた。そして、戦場を経験した兵士なら誰もが熟知しているが、滅多に論じられることがなく、その存在さえ認められていないトラウマを、私は手放した。私は解放され、そして成長を遂げた。飲み騒ぐような不健康な習慣や、恋愛の戯れ事の中で互いに依存しあったりすることや、自分を抑える術がわからないという恐怖から解放されたのだ。

自殺をはじめとする心的外傷後ストレス障害の副産物は軍隊を悩ませている。2010年には65分毎に1人の退役軍人が自殺した。2012年には戦闘による死者よりも自殺による死者の方が多かった。イラクでは、私のそばにいた兵士の一人がいきなりM16の銃口を口に突っ込んで自分を撃った。相次ぐ配備に起因するPTSD関連の問題と、その問題への確かな解決策の欠如に困惑した国防省は、瞑想の実践がPTSDに有効か否かを確かめるための調査を開始した。瞑想と軍人を関連付けた最初の研究は、1985年にベトナム退役軍人を対象として行われ、70%の退役軍人が苦痛の軽減を経験したという結果を示したが、それによって瞑想が普及することも、退役軍人への奉仕事業として瞑想が提供されることもなかった。私がTMを習った2010年でさえ、軍隊はそのような考えとは無縁だった。

しかし現在、多くの研究結果が、瞑想が退役軍人にもたらす莫大な効果をはっきりと示している。『ミリタリー・メディシン』誌によると、瞑想は退役軍人のPTSDとうつ病の症状を40%~55%減少させることがわかっている。さらに、瞑想によって退役軍人の不眠症が42%軽減し、体内のコルチゾール(ストレスホルモン)の濃度が25%低下したという研究結果も示されている。瞑想を補完するために、ヨガも、治療のツールとして軍隊に承認されている。ホリスティックなアプローチがますます受け入れられるにつれて、退役軍人たちの心の傷は癒されるようになってきている。

PTSDまたは外傷性脳損傷を患う退役軍人のために、退役軍人局の施設では現在、TMを学ぶ4日間のトレーニング・コースが提供されている。退役軍人局で退役軍人の支援のために働いている医療スタッフやカウンセラーにも、TMとマインドフル瞑想のどちらのトレーニングも提供されている。さらに、アメリカで最も歴史の古い陸軍士官学校であるノーウィッチ大学は、TMと新入学の士官候補生を対象とした広範な研究を実施し、また、多くの軍事施設では、成員のためのメンタルヘルス・サービスに瞑想プログラムが取り入れられている。私が瞑想を習ったばかりの頃、現役で軍務に就いている私の友人の多くは、それはちょっとアブナイのではないかと思っていた。しかし、近年になって軍が瞑想の研究に取り組み、瞑想はすべての退役軍人に効果があるという結論を出した現在、その汚名は消え去り、私の戦友たちは瞑想を回復力を高めるための手段として認めるようになった。

私の場合、瞑想は小さいけれど有意義な変化を生み出した。ある日、繁華街を散歩しているとき、私は立ち止まって犬の頭を撫でた。数分後、私ははっとして足を止めた。私のやったことに気づいたからだ。イラクで1カ月の間、迫撃砲の激しい攻撃にさらされているとき、一頭の火薬捜査犬が精神的にショックを受けて、私を襲った。この出来事は、生来の犬への恐れと相まって、犬への警戒心を私に植え付けた。私は、その犬が噛みついて離れようとしなかった肘の傷に触ってみたが、その傷に残り続けていた恐怖をもう感じることはできなかった。まもなく、私は、自分らしい人生を生きることを阻んできたあらゆるものを、まったく思ってもみなかった形で捨て去るようになっていった。

私は人生で初めて、過去に酷い仕打ちをした人々を許せるようになっているのを感じた。私は、毎日の仕事に行く道の途中で、文字どおり、立ち止まって花の香りをかいでいた。そして微笑んだ。つらかった日々はもう過ぎ去ったのだ。私は頭が良くなったようにさえ感じた。瞑想をすればIQが上がるという研究結果があるが、私は驚かない。MUMを卒業後、私はコロンビア大学の修士課程に進んだのだから。

フェアフィールドは、そこで生まれて、そこで育って、そこで死を迎える、何世代ものアイオワの人々の故郷でもある。中西部で暮らすこれらのブルーカラーの住民の多くは、瞑想者たちに対して反感をもっていた。地元住民たちは町が乗っ取られたかのように感じていたのだ。彼らは、キヌアよりもステーキが好きであり、ヨガよりもバーで一杯やるビールの方を好み、炭素削減のための自転車よりもトラックに乗りたい人たちなのだ。それに、MUMには100カ国以上から学生が集まっているので、人種の違いも一つの難題となっていた。しかし、事情は変わりつつある。瞑想者と町の住民は今、あまり型にはまらない役割を果たしている。そして、瞑想する起業家たちが町にもたらした経済の好調のおかげで、両者の相違はあまり気にならなくなっている。

奇妙なことだが、私はアイオワの地元民と距離をおいて生活していた。町に一つしかないウォルマートに買い物に行くとき、私はそこで「ヒーローたちの壁」──フェアフィールド出身の退役軍人の写真が掲示された壁──を見ていた。ある日、私はその写真の中に見慣れた顔をみつけた。それは私の最後の任務で一緒だった兵士だった。フェアフィールドやその他の社会経済的に落ち込んでいる地域は、軍隊入隊者を最も多く出している地域だ。この地域で私はその住民の中で暮らしていたが、彼らと調和してはいなかった。だが、そのシンクロの体験は私を本来の願いへと引き戻した。私が初めて瞑想を習ったとき、担当の教師は、私の目標は何かと尋ねた。私は彼女に、「私はこの世界の中にいたいのです。この世界から離れるのではなく」と答えた。そして私はまさにそのとおりになっていたのだ。

私にとって、このアイオワの小さな町は、しばしの休息と再生の機会を与えてくれた場所だった。その場所で私は命令と規律のライフスタイルを別のライフスタイルと取り替えることが容易にできたし、それによって私は滋養を与えられ、自己理解を深めることができた。アメリカの他のどこを探しても、町全体が東洋の神秘主義を生き、それを呼吸している場所は見つからないだろう。その場所での体験は、ヨガのクラスを受講したり、バーニング・マンのフェスティバルを見に行ったりして得られるものをはるかに超えている。私は瞑想の実践を続けており、それによりもたらされた恩恵に感謝している。しかし、ついに、私がその場所を去らねばならない時がきた。共に暮らした人々が言っていたように、それが私のカルマなのだ。

Source:How meditating in a tiny Iowa town helped me recover from war By Supriya Venkatesan, The Washington Post