風変わりな鬼才たち:デヴィッド・リンチとリック・ルービン

優れたアーティストたちにとって偽りのない真の自分こそがインスピレーションの源だ。映画監督のデヴィッド・リンチと音楽プロデューサーのリック・ルービンも真の自分に留まることを大切にしている。

「Town & Country」がこの二人を取り上げた。題して「風変わりな鬼才たち:デヴィッド・リンチとリック・ルービン。都会派の騒乱好きなパイオニア二人が内なる平和のための活動で協力」。以下はその記事の日本語訳

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リック・ルービンは、大変騒々しいロック音楽の作品を数多く手掛けた音楽プロデューサーであり、ほとんど誰とでも協力関係を築ける畏敬すべき人物と言っていいかもしれない。生涯を通じて瞑想していればそうなるのだろう。シュールな作品で知られる映画監督デヴィッド・リンチは、胃潰瘍を患ったサミュエル・ベケットみたいな風貌をしている。ご存じないかもしれないが、リンチも瞑想を数十年続けている。超越瞑想に傾倒する彼は、デヴィッド・リンチ財団を通じて精力的な活動を行い、心を落ち着ける方法を世界中で教えている。リンチとルービンはスピリチュアルメッセンジャーには最も似つかわしくないかもしれないが、ロスっ子としても似つかわしくなく、それを嫌がってさえいた時期があった。

リンチはハリウッドヒルの大邸宅で暮らしている。彼は自分のウェブサイトで毎日の天気予報をやったり(基本的に毎日同じことを言っている。それがロサンゼルスの天候だから)、濃い口のオーガニックコーヒー(自ら栽培・焙煎・販売しているオリジナルコーヒー)に入れ込んだりなど、ある特定の奇行やこだわりで知られている。彼は1971年に、通っていた美術学校があるフィラデルフィアからロサンゼルスに移住した。「初めてロサンゼルスに来た人は、そこがすごく単調な場所だと感じるようだ。私もそう感じた。」と、同じくとても単調な場所であるモンタナ州出身のリンチは言う。「しかし、ここに住めば住むほど、さまざまな変わった区域を見つけるようになり、それぞれの区域が独特の感じを醸し出していた。区域によってはハリウッドの黄金時代みたいな感じがまだ残っていて、そのあたりを見渡せば、デューセンバーグを乗り回すゲーリー・クーパーを目撃しそうな感じがした。」

リンチは習慣的な行動を非常に好む。例えば、この映画監督は、7年間毎日午後2時30分にリバーサイド・ドライブにあるボブズ・ビッグ・ボーイに現れてチョコレート・ミルクセーキを飲んでいる。だが、リンチが一日二回の瞑想を41年間続けていることを考えれば、彼にとってTM(超越瞑想)という楽しみはチョコレート・ミルクセーキよりもずっと魅力があるということになる。それについて考察してみよう。

リンチは、「聖マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーへ」とTM創始者への献辞を載せている著書『大きな魚をつかまえよう:リンチ流アートライフ 瞑想レッスン』(邦訳タイトル)の中で、次のように述べている。

「瞑想のことを初めて聞いたとき、私は全然興味がなかった。好奇心さえ感じなかった。そんなものは時間のムダだと思っていた。だが、『真の幸福は内側にある』という文句を聞いたとき、私は興味をそそられた」。

ちょうどそのとき彼の姉から電話があり、彼女が6カ月瞑想していることを知らされた。それで、心をかき乱すような映画『イレイザーヘッド』、『ブルーベルベット』、『マルホランド・ドライブ』やTVシリーズ『ツインピークス』を次々に製作していたリンチは、1973年のある日、ロサンゼルスのTMセンターに立ち寄ってTM教師と面会した。「私はその教師を気に入った」と彼は言った。「彼女はドリス・デイ(米国の映画女優)に似ていたんだよ」。リンチは小部屋に案内され、マントラを与えられ、それを心の中で20分間繰り返した。そうするうちに、「ドーン!…と私は至福──純粋な至福──の中に落ちていった。」

リンチによれば、私たちのほとんどは、否定性という息苦しいゴム製の道化師の衣装をまとって人生を送っているのだが、瞑想の実践を十分に積めばその衣装は「消滅する」。彼は、刑務所の受刑者、心的外傷後ストレス障害に悩む兵士、アメリカ先住民、苦境にある学生など、「リスクにさらされているグループ」にこの瞑想法を教えるために、「意識に基づく教育と世界平和のためのデヴィッド・リンチ財団」を設立した。同財団は2007年から活動を開始し、サンフランシスコのビジテーションバレー・ミドルスクールを皮切りに、全米の数多くの学校(そのうち4つロサンゼルスの学校)に瞑想プログラムを導入した。このプログラムが宗教とは無縁であることを強調するため、同財団はそれを「静寂の時間」と呼んでいる。

RickRubin

TMという共通の関心を通じて6年ほど前からリンチと交流があるルービンは、1977年、14歳のときに初めて瞑想と出会った。そのとき彼はロングアイランドの小児科医院を訪れて首の痛みを訴えていた。他の医者であれば鎮痛剤を処方したかもしれないが、この医者は瞑想を彼に勧めた。「両親は瞑想なんて嫌がるだろうな、と思っていたのを憶えている」とルービンは話した。「ところが両親は、『ふむ、医者がそう言うんだったらやってみるか』と言ったんだよ。」

ルービンはおそらくアメリカで最も影響力のあるロック音楽プロデューサーだ。彼の手掛けた作品には、ビースティ・ボーイズの「Licensed to Ill」、スレイヤーの「Reign in Blood」、レッド・ホット・チリ・ペッパーズの「Blood Sugar Sex Magik」、ジョニー・キャッシュの「アメリカン・レコーディングス」シリーズ、カニエ・ウェストの「Yeezus」などがある。これらの曲は、意識的に行う呼吸法よりも激しい息づかいを連想させる、騒々しくて攻撃的な音楽だ。しかし、ルービンは実験的な試みに躊躇したことはなかったし、1977年に話を戻すと、彼はその頃すでに瞑想に対して偏見を抱いていなかった。なぜならビートルズが瞑想を気に入っていたからだ。アボガドのスライスを巻いたカリフォルニアロールみたいに、そのバンドは東洋のものを素材にして西洋で好まれるものを創り上げた。ビートルズが1968年にインドを訪れて以来、マハリシの崇拝者はそこらじゅうにいる。ビートルズの訪問の後、そのグルはライフ誌の表紙に載ったり、「ザ・トゥナイト・ショー」に出演したりした。しかし、マハリシは1959年からずっと世界中でTMを教えていたのだ。そしてマハリシが91歳で亡くなって6年経った今でも、TMはアメリカで生き残っているだけでなく、現在ではオプラ・ウィンフリーのお気に入りになっている。

ルービンは高校時代まで瞑想を続けていたが、1981年に大学に入学した頃にやめている(彼がラッセル・シモンズ──瞑想者であることを公言している有名人の一人──と共同設立したラップレーベル「デフ・ジャム」は、最初はニューヨーク大学の学生寮のルービンの部屋を本拠にしていた)。

1987年に彼はロサンゼルスに飛んで映画『ザン・ゼロ』のサウンドトラック制作に取り組んだが、リンチと同じく、その場所が気に入るまでにしばらく時間がかかった。

「私はそこがあまり好きではなかった」と彼は言う。「私が住んでいたグリニッジ・ヴィレッジと比べると、ロサンゼルスはずいぶんと郊外の地域だった。私は郊外で生まれ育ってから都会に移住したので、昔に戻ったような──故郷に戻ったような感じがしたんだ。それは私の望まないことだった。」

それでもルービンは、シモンズとの共同経営を打ち切った後、ロサンゼルスで新しい会社「デフ・アメリカン」を立ち上げたのだが、それから間もなく、お気に入りの場所が増えてきているのに気づいた。「ブック・スープにはよく通った。そこは夜遅くまで開いているので気に入っていた。それに、夕食をとった後でロックミュージックを聴きに行けるのは実にありがたいことだった。その当時、ニューヨークの夜の街はヨーロッパのダンスミュージックで溢れていたからね。週末になるとサンセット・ストリップは若者たちで賑わっていた。ファッションや音楽は違っていても、そこには60年代の若者革命を彷彿させる雰囲気があって、ワクワクさせられたものだ。」

ルービンはウェスト・ハリウッドで気に入った家を見つけ、やがてその家の持ち主になった。彼はまた瞑想するようになり、今度は決してやめなかった。「ワイルドフラワーズ」をプロデュースしていたときはトム・ペティと一緒に瞑想し、「カリフォルニケーション」のレコーディングをしていたときはチリ・ペッパーズと一緒に瞑想した。「TMは、私が人の話をよく聞けるように訓練してくれた」とルービンは語っている。「それはこの仕事をしていく上で重要な部分なのだ。」

リンチとルービンは必ずしも行動を共にしているわけではないが──二人ともかなり引きこもりがちである──TMに対する情熱が二人を同じ部屋へと連れ出した。2007年と2009年、ルービンはグラミー賞の年間最優秀プロデューサーを受賞したが、授賞式には欠席していた。ルービンは「今世紀最優秀プロデューサー」に指名されたとしても、おそらく家から出てこないだろう。しかし彼は、二月にビバリー・ウィルシャー・ホテルに現れて、デヴィッド・リンチ財団の「調和の生涯賞」を受け取ったのである。表彰台のそばには近づかなかったにしても。

原文・Ash Carter