存在することは、ただそれだけで至福である

「存在することは、ただそれだけで至福である。生きることは、ただそれだけで神聖である。」

初めて哲学者ヘッシェルのこの言葉に出会ったとき、これは非常に賢明な言葉だという感銘を受けたが、同時に、自分には馴染みのない経験のようにも思えた。多くの欧米人と同じように、私は絶えず活動の中にいていつも何かをしていたからだ。

なぜだろうと私は思った。

自分は何かに値すると証明し続ける必要があるのだろうか?
孤独が怖いのだろうか?
何かを逃してしまうのを恐れているのだろうか?

もちろん、私は自分の周りの患者や友人達もそうした活動の中にいるのを見てきたが、近年ではその活動がさらに増しているようだ。今ではスマートフォンがいたるところにある。多くの人が絶えずネットに接続して、ウェブサーフィンやメール交換に没頭している。まるで母親の胎盤から胎児に送られてくる養分のように、巨大な電子的胎盤から絶え間ないメッセージの流れ、ニュースの更新、ディスカウント商品の広告、ジョーク、可愛い猫の写真、友達申請などが送られてくる。このような生活の中で、私たちは絶えず何かに反応しながら生きている。

しかし、超越瞑想を再開した頃には、私はこう確信するようになっていた。いつも他とのつながりを維持して何も逃さないようにと努めるあまり、自分は「存在する技術」というとても重要なものを逃している。私はヘッシェルの「存在することは、ただそれだけで至福である」という言葉に賛同した。しかし、どうすれば「ただ存在する」ことができるのだろう。私はその方法を忘れてしまっていた。あるいは、その方法をまったく学んだことがなかった。

妻は私が規則的に瞑想しているのを見て言った。

「瞑想中に何が起こっているか分からないけれど、あなたが一日に二回、二十分も静かに座っていられるなんて奇跡だわ!」

しかし、瞑想が習慣になってくると、自分の内側の世界が次第に静かになってきた。私にとっては、これが瞑想からの第一の贈り物である。瞑想は私に一つの技術を与えてくれた。その技術のおかげで、少なくとも一日に二回は一人だけになり、とても穏やかで幸福になれる。今では、気を散らさずに自分の内側の世界を探検することができる。これが、毎回の瞑想で私が味わっている贈り物の一つである。

──ノーマン・ローゼンタール著「超越瞑想 癒やしと変容〜精神科医が驚く効果と回復」より