超越主義のエマソンがかいま見ていた永遠なる一つの体験とは?

1836年に『自然(Nature)』と題されたエッセイが匿名で出版された。このエッセイはとりわけ大学生の間で大きな反響を巻き起こし、彼らは同好会を作ってそれについて論じ合った。

このエッセイは、アメリカ超越主義と呼ばれるようになった運動の端緒を開き、アメリカ全体に影響を及ぼした。その影響は今日なお続いていることが感じられる。

『自然』の著者、アメリカ超越主義の創始者は、ラルフ・ウォルド・エマソンである。

エマソンは何代も続いたキリスト教聖職者の家系に生まれた。14歳でハーバード大学に入学し、26歳で牧師になった。彼の説教には人気が集まった。しかし彼は講演と著述活動に専念するために牧師の職を捨てることになる。エマソンはアメリカでも屈指の雄弁家の一人とみなされ、彼が残した日記は精神の成長に関する世界有数の記録文献の一つになっている。彼は主としてヴェーダ文献から着想を得ていた。ヴェーダ文献は彼自身の体験に説明を与えるものであったからだ。

アメリカ超越主義は、しばしば理知的、社会的な運動と見なされる。だが、エマソンとソロー(この運動のもう一人の創始者)は著書の中で、彼らを駆り立てたものは超越の体験であったことを明らかにしている。彼らの著書にはそれらの内的体験が明快に説明されている。以下はエマソンの有名なエッセイ『大霊(The Over-Soul)』の一節である。

emerson-45そのような短い瞬間には深遠さがあり、その瞬間を体験するとき、私たちは、その体験には他のどのような体験よりも大きな真実性がある、と感じることを余儀なくされる。…

地球が大気の柔らかな腕に抱かれるごとくに、私たちは大いなる自然の中で安らいでいる。この大いなる自然が、「統一」、「大霊」であり、その中で、すべての人間の個々の存在が、他のあらゆる存在と一つになっている。…

私たちは、生命を受け継ぎながら、部分や単位に分断された状態で生きている。その一方で、人間の内には、全体としての魂、思慮深い静寂、普遍の美が存在し、どの部分、どの単位も一様にそこに繋がって、永遠なる一つを成している。

私たちはこの深遠な力の中にあって、その力のもたらす至福をすっかり手に入れることができる。そしてこの力は、どの瞬間にも自己充足し、完璧であるのみならず、見る行為と見られる対象、見る者と見られる光景、主観と客観とが一つになっている。私たちはこの世界に存在するものを、太陽、月、動物、木……というように別々の現象としてとらえる。だが、これらの輝かしい部分のすべてが一つになっている全体、それこそが魂なのである。…

はっきりしているのは、人間の内なる魂は私たちの存在の背景であり、現象のすべてはそこに内包されているということだ。その広大さは私たちの理解を超えている。内側あるいは背後から発せられる光は、私たちを通じて輝き、物事を照らし出す。そのとき私たちは、自身は無であり、光がすべてであることに気づかされる。一人の人間は、あらゆる叡智、あらゆる善が納められた神殿を外から見た一面である。…

魂が人間の理知を通じて呼吸をするとき、それは才能となり、人間の意志を通じて呼吸をするとき、それは徳となり、人間の情の中を流れるとき、それは愛となる。…

この純粋な性質を、すべての人間はいつかは感じるようになる。それを言葉で言い表すことはできない。あまりに微妙なものであるから。それはとらえどころがなく、計り知れないものだが、それが私たちの中に充満し、かつ私たちがその中に包含されていることに、私たちは気づいている。人間の内側にはあらゆる霊的存在があることを、私たちは知っている。…

私たちは一面では、深遠な霊的本質に、神の性質に開かれているのである。

エマソンは何について語っているのだろうか? まず言えるのは、彼は観念や知的な洞察だけを語っているのではなく、彼自身の体験を説明しているということだ。このような体験は「短い瞬間」としてやってくるに過ぎない。しかし、その体験には他のどのような体験よりも「大きな真実性」がある。そのような瞬間には隠されていたものが体験される、と彼は信じている。それは、「全体としての魂」、彼の存在の根源、生命そのものの根源である。この生命の内なる領域に、彼は「大霊」という名を与えている。

この生命の内なる領域はあらゆる多様性の背後にある、と彼はさらに語りかける。それは、統一されたもの、「永遠なる一つ」である。この統一されたものを体験するとき、「見る行為と見られる対象、見る者と見られる光景、主観と客観とが一つになっている」、と彼は言う。

エマソンは、第四の意識状態、すなわち、私たちがふだん体験している目覚め、夢、眠りの状態を超えた意識状態の体験について語っている。これはマハリシ・マヘーシュ・ヨーギーが超越意識と呼んだ意識の状態だ。マハリシが「人間の意識の最も単純な状態」と表現したこの自然な意識状態になると、心は落ち着いて内側に向かい、すべての感覚、想念、感情を超越する。そのとき、心は安らぎに満たされると同時に、完全に目覚めた鋭敏な状態になる。

この状態のときに意識は何を認識しているのだろうか? 意識それ自身のみを認識している。そのとき人は、純粋な状態、静寂で枠のない状態の意識を体験する。超越意識では、エマソンが記しているように、「主観と客観」は「一つになっている」。

これより価値のある体験は他にない、とエマソンは断言する。私たちの内側には「あらゆる叡智、あらゆる善が納められた神殿」がある。これこそが才能、徳、愛の根源である。それは「計り知れないもの」ではあるが、「それが私たちの中に充満し、かつ私たちがその中に包含されていることに、私たちは気づいている」と彼は言う。

エマソンは著書の至るところで、統一された意識の状態の体験とその解釈に言及している。そして彼は一貫して、この意識のレベルこそが自然の法則の根源であると考えている。

エマソンは、『自己信頼(Self-Reliance)』というエッセイの中の有名な一節でも、この体験について次のように書いている。

静寂な時間を過ごしているとき、なぜかはわからないが、魂の中の「存在」を感じることがある。「存在」は、物事や、空間や、光や、時間や、人間とは異なるものではなく、それらを内包したもので、明らかにそれらの生命や存在と同じ根源を共有している。私たちは物事を存在させる生命を最初は共有するものの、後になるとそれらの物事を自然のなかの現象としてとらえてしまい、その根源を共有していたことを忘れてしまう。しかし、ここにこそ行動と想念の泉がある。ここには人間に叡智をもたらす霊感を呼吸している肺がある。… 私たちは限りなく広大な知性の中にいる。

ここでも彼は、「存在」の体験について語っている。それは想念の源であり、被造界そのものの源であり、万物を存在させる生命である。エマソンは、人間の意識と、統一場すなわち自然界の無限の知性とは同じものであると考えている。

「単純な状態になっている心は神聖な叡智を受け入れる」と、エマソンはこのエッセイの中で語っている。超越意識、すなわち純粋な知識の場は、人間の意識の最も単純な状態である。

この生命の内なる領域には、何千年もの間に、たくさんの名称が与えられてきた。老子はそれを「タオ」と呼び、プラトンはそれを「善と美」と呼び、アリストテレスはそれを「存在」と呼び、プロティノスをそれを「無限なるもの」と呼び、イエスはそれを「内なる楽園の王国」と呼んだ。ユダヤ教ではそれは「エーン・ソーフ」として知られている。

どのような名称が与えられようと、それらはみな同一のものを指している。それは、私たち一人一人の内側にあって体験と覚醒の時を待っている普遍的な枠のない意識の場であり、自然界そのものを生み出している普遍的な知性の場なのである。

エマソンの純粋意識の体験は、まれにしか起こらない、つかの間のものであったようだ。彼はそれらの体験を引き起こす術を持たなかった。それらの体験はごく短いものではあったが、エマソンの時代の幾人かの偉大な賢者たちの心に響き、今日でも響きつづけている生命のビジョンを彼に与えたのである。

現在では、私たちは、この価値ある体験を意のままに引き起こす簡単で自然で努力の要らないテクニックを、マハリシから、そして古代のヴェーダの伝統から授けられている。超越瞑想は、努力なしに心を落ち着かせて内側に向け、エマソンが「思慮深い静寂」と呼んだものを毎日二回体験させてくれる。それは容易に習得でき、楽に実習でき、このうえなく価値のあるものである。

原文・CRAIG PEARSON, PH.D.

  

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