暗闇から光へ:抑うつと不安がなくなった。

うつ病と不安症は、誰にでも起こる可能性がある過酷な病気だ。いったん症状が始まれば、あっというまに暗い穴の中に滑り落ちていく。

そんな状況のなかマーティンは、ある日、幸せを見つけだすのは不可能ではないことに気づいた。それは唐突ではない、自然な形で。というもの、幸福はすでに内側にあったからだ。

それ以前

子供の頃は、ジャンクフードを食べることが不愉快な気分を紛らす良い方法であることを知った。十代の頃にはアルコールと大麻を一緒にやっていた。二十代になるまでに、抗うつ剤に加えて、処方された量を超える鎮痛剤と抗不安薬を服用するようになっていた。

一日を乗り切らせてくれるものであれば何にでも手を出した。

気分が落ち込んで不安になっているとき、この世界で生きることはあまりに酷であるように感じる。ごく普通の物事が克服しがたいことのように思える。他の人たちを見るにつけ、「ああ、他のみんなはとてもうまく対処している」と思ってしまい、絶望的になり、解決の答えはまったく見つからない。

私はしばらくの間は職に就いていたが、その頃に不安と抑うつが一層悪化しはじめた。怒りっぽくなり、憂うつになり、絶えず痛みがあった。頭痛、首の痛み、腰痛、そして腹痛。それは終わりのない苦しみに思えた。私はベッドから出ることができない、出ようとも思わない状態に陥った。とても働けるような状態ではなかった。

私はたびたび精神分析医や精神科医の診察を受けた。彼らは私と面談し、錠剤を処方し、事態はそれほど悪くないのだと私を説得した。私は別の仕事を見つけられる程度まで体調を取り戻した。しかしストレスはまた蓄積していく。そして同じサイクルがまた始まるのだった。

私の不安はひどく悪化して、自分の頭の中で行き詰まってしまったので、数年間、家から出ることができなくなった。私は二十五歳になっていたが、自分一人で食料品の買い物もできなかったので、私の父が私を店まで連れて行かなければならなかった。

TMとの出会い

不安のために家の中に閉じこもっている間、私は『ザ・ハワード・スターン・ショー』を聴き始めた。あるときハワード・スターンは、彼の母親はうつ病と不安症を患っていたが、超越瞑想──TMによって心の健康を取り戻したという話をしていた。私は、彼の母親が感じていたことにとても共感したので、もしかしたらTMは私も助けてくれるのかもしれないと思った。

私はTMのことを少し調べてみたが、結局は、自分のお金をアルコールに費やす方を選んだ。二年以上の間、ハワードが母親について語っていた話は私の頭の中に残っていたが、私はそれに関して何の行動も起こさなかった。

その後、ある日、私はTMセンターに電話しようという衝動に駆られた。なぜ怖れが私のその行動を妨げなかったのか、今でもわからない。私は電話をして、一か月足らず後にTMを習った。

TMを習った後に感じたこと

抑うつとは濡れた毛布に四六時中くるまっているようなものだと、誰かが書いていたのを読んだことがある。瞑想したとき、初めてその毛布を誰かが取り去ってくれたような気がして、『ああ、この世界ってこんなふうに感じるものだったんだな』と思った。

私は信じられないような気持ちだった。それほどその感覚は深いものだったのだ。

うつ状態になると、それを解消する方法がまったくないように感じる。そして、「少しも気が晴れないのは、自分のどこが悪いのだろう?」と、打ちのめされた気分になることもある。うつの症状がある人々の多くは、なんとかそれを捨て去りたいと思っている。その症状があるかぎり、心身が疲れ果ててしまい、休息がまったく得られないように感じるからだ。

TMをしていれば、一日二回の休息を得ることができる。

私が最初に瞑想したとき、何の問題もなく、座って二十分それをすることができた。そして瞑想する前とはまったく反対の感覚になった! それは、私がいつも錠剤やマリファナやアルコールにすがってなんとか手に入れようとしていた感覚だった。私は落ち着いていた。私は幸せだった。私は完全だった。

その後、その落ち着きは、私の世界の中に広がっていった。それはとても緩やかな変化だったので、以前どれほど不安を感じていたかを振り返って考えてみるまで、私はその変化に気づかなかった。しばらくしてから、私は、パニック発作を起こさずに外に出られるようになった。もうそれほど不安を感じなくなったので、私は出会った人たちに微笑みかけ、彼らも微笑みを返すというふうなっていた。もはや世界はそんなに恐ろしい場所ではなくなった。

新しく獲得した物の見方

TMを習った後、私は家の外に出て行動することが多くなったので、必然的にこれらの新しい行動は新しい難題やストレスをもたらした。私はまた不安を感じるようになってきた。

TMを始める前なら、それによって私は振り出しに戻ってしまっただろう。すっかり参ってしまっただろう。酒で酔いつぶれてしまっていただろう。

だが今度は、私は、一歩下がって、こう言うことができた。「私は他のやり方で現実と取り組む必要がある」と。

初めて私は、感情に流されずに、自分の経験について考えることができるようになった。つまり、自分がなぜこのように感じているのか、自分がなぜこれらのことを経験しているのか、ということを。

今度は、本当に仕事を始められるかもしれない。

その仕事がどんなに難しいものであってもだ。以前なら、自分がどんな気持ちになるだろうかと際限なく考えてしまったので、新しい仕事を始めるのはずっと大変だった。

TMをしていると、物事がうまくいっていなくてもこれは永遠に続く訳じゃないという考え方ができるようになる。かならずまた別の機会があるし、また別の日がやって来るのだ。以前であれば、嬉しいと感じているときでさえ、どうしていいかわからなくなっていたのだ。

今では私は、浮き沈みがあるのは当たり前であることを理解し、それらの物事を経験して観察することができる。今でも時には外出することに怖れを感じることもあるが、怖れを感じていても、とにかく外に出ることができる。以前は怖れにすっかり取り囲まれていたが、今では怖れは背後にあるものにすぎない。以前なら、私は怖れそのものであった。今では、私はもっと素晴らしいものなのだと感じている。もはや私は、そのときどきの自分の反応から、自分はそういう人間なのだと考えることはしなくなっている。

より良い判断

いくらかの落ち着きが感じられるようになると、頭の中がはっきりして、より良い判断ができるようになってきた。より良い判断ができるようになると、実に気持ちがすっきりするようになった。以前は、アルコールが状況を良くすると思っていたものだが、その理由は、状況がとても酷かったので感覚を麻痺させたかったからなのだ。今ではもう私は、感覚を麻痺させる必要がなくなった。

その時々に一時的でも気分を良くしてくれるものなら何でも手にとる、というのが私の身についた反応だった。ドラッグ、アルコール、ジャンクフード、携帯電話、ビデオゲーム、インターネット、そのほか目に入ったものは何でも。今の私は、その反応を捨て去る自由をもっている。今は、スーパーマーケットにいるとき、砂糖や脂っこいものが無性に欲しくなることはなくなり、栄養のあるもの、消化に良いものが欲しくなる。自然に有益な食物に引き寄せられるのだ。怖れがあまりなくなった今では、公園に出かけていくらかの運動ができるようになった。公園に行って運動がしたくなるのだ。

ほどほどの…

おかしな話だが、私のうつ状態があまりに酷くなったため、瞑想を試してみる必要に迫られたことを、ある意味、幸運だったと思っている。私は絶望に陥ったからこそTMを習ったのだ。他のすべてのことはすでに試していた。瞑想がどれほど私の助けになったかについて人々に話すとき、ほとんどの人は瞑想など解決方法としては単純すぎると思っているようだ。そのため、私は長年の間もっと複雑な解決方法を探し求めたが、それは見つからなかったのだと、彼らに説明するのは少々骨が折れる。

これまでに私は多くの人たちにTMについて話してきたが、彼らは、「ああ、私にはそういうものは必要ないですね」と言う。

彼らには一日を乗り切るために必要な、ほどほどの刺激がある。ほどほどのコーヒー、ほどほどのチョコレート、そして彼らの携帯電話はほどほどに着信音を鳴らす。

しかし、なぜ、「ほどほど」で十分なのだろうか?

現代では、私たちは、過剰な刺激にさらされる一方で栄養不足に陥っていることが、とても多くなっている。私たちの心と頭は切り離されている。私たちは、幸せになるためには、TVに出ている人たちのようにならなければならない──彼らのような身なりをし、彼らのように振る舞わなければならない──と教え込まれている。だが、彼らだって幸せではないのだ! 人々は、「こうすればあなたは幸せになる」と思いこむように洗脳されているので、変化は内側から始まるという話など聞きたがらない。

私にとって、TMは、ストレス解消をはるかに超えるものだった。TMは、私が宇宙の中の自分の場所を理解するのを助けてくれた。以前の私は、まるで自分が世界を敵に回しているような、大きな戸惑いと孤独を感じていた。私が生きているただ一つの目的は、ここに存在して、理解し、成長し、私とは何なのかを知ろうとすることであり、それがすべてであって、私がそうしていないのではないかと思い悩むことではないのだ。こうした感じ方は、この上なく役に立つものになっている。

私は精神科医や精神分析医との面接に多くの時間を費やし、幸せになることは私にはあり得ないことであると言い張ってきた。私は不安と抑うつに悩まされている人間であり、これまでずっとそうであったのだと訴えていた。それ以外の感情を私は想像することさえできなかった。彼らとどれほど話し合っても、私の心を変えることができなかった。自分が感じていないことを信じることはできなかったからだ。幸せを見つけだすのは不可能ではないこと、幸せは内側にあることを理解するために、私は、私たちが生きている現実の統一的な本質を実感する必要があったのだ。

その実感を、私はTMを通して得ることができたのである。

Source:“Beating depression and anxiety: Martin’s journey from darkness to light” by TM HOME